お茶の水女子大学の前身である東京女子高等師範学校はかつてお茶の水の地(現:文京区湯島)にあった。
ところが、大正12(1923)年9月1日に突如発生した関東大震災により、
校舎を焼失するという甚大な災厄に見舞われてしまう。
その日の業務日誌には五十年余の歴史を有せん本校は全て烏有に帰せりと記され、教職員はじめ学校関係者が受けた衝撃は甚大だった。
しかしながら、その後、現在の大塚に校地を移し、今に至ることは説明するまでもない。
平成20(2008)年に登録有形文化財に登録されたお茶の水女子大学本館(旧:東京女子高等師範学校本館)は震災からの復興事業の中心的建築物であった。
校舎焼失の教訓から不燃構造で建てられ、現在も随所に残る竣工当時の流行のデザインは、震災に負けない新しい時代にふさわしい校舎をという思いが込められている。
その他にも本学には校舎焼失から校地移転までを今に伝えるモノが数多く残されている。
たとえば、震災直後の崩壊した校舎の焼跡、仮校舎、そして新校舎落成を慶する祝賀会の様子などを撮影した写真の数々、震災当時に記された業務日誌、教職員が総出で震災時に校舎から救い出した教務や庶務関係の重要書類などである。
この度の企画では、これらの資料や写真、そして大学本館の見どころを紹介し、校舎焼失から復興までの軌跡を辿る。
開催時の案内はこちら ⇒ 2011年企画展示
大正12(1923)年9月1日午前11時58分、すさまじい大音響とともに激震が突如襲った。 その激震は学校の玄関を破壊し、校舎の屋根瓦や壁、天井を崩し落とし、校舎内のあらゆる棚を倒した。 その日は夏期休暇中だったため校内に生徒はおらず、校長と事務職員、そして教員数名が在校していた。 強震による校舎倒壊はなんとか免れたと思ったのもつかの間、既に近隣各所で発生していた火災が学校まで延焼し、火の手は猛烈な勢いで校舎を襲った。 そして震災発生後数時間あまりで校舎は焼失し、表門(正門)と門衛所だけが焼け残った。
校舎を失っても東京女子高等師範学校の歴史は途切れなかった。震災翌日の9月2日には、上野の東京音楽学校内に仮事務所を置き、復旧に向けての歩を進めている。 そして、各所の学校の教室を借り、当初の予定より2ヶ月弱遅れたものの11月1日に第二学期の授業を開始している。 さらに、震災から半年ほど経た大正13(1924)年3月に、旧校舎の焼跡に建設された木造平屋建の仮校舎が完成し、昭和7(1932)年までの約8年間、そこで授業が行われた。
昭和3(1928)年11月に文部省より現在大学のある大塚の地を交付され、新校舎建設が始まる。 復興事業の中心であった本館は昭和6(1931)年1月9日に起工、昭和7(1932)年8月31日に竣工した。 それは校舎焼失の教訓から不燃構造の鉄 筋コンクリート造で建設された。 そして、本館中央に位置する講堂は先人の美徳をよく受け継ぎ徳音を行ったという中国の故事にちなみ「徽音堂(きいんどう)」と名づけられた。 竣工時に、東伏見宮妃周子より贈られた染筆「徽音堂」の額は現在も講堂に掲げられている。
関東大震災から13年を経た昭和11(1936)年に新校舎が附属校園も含めてすべて整備され、移転を完了する。 その年の11月28日、29日には、落成式および落成記念祝賀会が挙行された。祝賀会では新校舎が万国旗などで装飾され、空にはアドバルーンが飛んだ。 音楽会や手品、講談などの余興が催され、運動場では模擬店が出された。 本学に残る当時の写真に見られる祝賀会の様子やその出席者の楽しげな表情から復興の喜びがいかに大きかったか知ることができる。
震災からの復興事業の中心的建物は本館であった。担当したのは文部省建築課で、チームは建築課長の柴垣鼎太郎、設計掛長の高橋理一郎、そして設計者の田中徳治であった。 施工は清水組が行った。建設期間は600日、延人員は55,032人であった。当時の流行であったアール・デコ様式を取り入れ、スクラッチタイル、布目タイルや富国石など最新の部材を使用しており、当時においてはとてもモダンな建物だった。 モダンでありながらも格調の高いデザインは、開学の地であるお茶の水からの歴史と伝統を受け継ぎ、新校地にて新たな歴史を刻んでいく校舎にふさわしい。 現在の大学本館の随所には、竣工当時のデザインや部材が残っている。それらからは当時の設計に携わった者の校舎へかけた情熱が伝わってくる。 さらには、新校舎落成を喜ぶ当時の東京女子高等師範学校の生徒たちや教職員の様子を思い起こさせる。
1 外観全体白いレリーフを中心に左右対称のデザイン。全体的に堂々としつつも優しさが感じられ、「女子の最高学府」にふさわしい。 |
2 玄関・車寄せ車寄のカーブが大きく優雅。玄関扉は真鍮製の蝶番や取手等の部品を含めてほぼ竣工当時のまま。歴史の重みを感じさせる。 |
3 外壁レリーフぶどうの房、葉、つるをモチーフにしたレリーフ。周りのタイルの茶色に対して、白いレリーフが映えている。 |
4 スクラッチタイルスクラッチの名のとおり、串で引っかき傷模様をつけたタイル。昭和初期の流行。手作りのため味がある。 |
5 換気口鋳鉄製の換気口。昭和初期のモダンでシンプルなデザインが換気口にも施されている。 |
6 玄関ホール天井部には緩やかなアーチの装飾が見られる。床は白と黒の大理石張りの市松模様の欧風デザイン。 |
7 ステンドグラス床と対応するかのように、正方形を基調とした幾何学模様のモダンなデザイン。ガラスはほとんどが竣工当時のまま使用されている。 |
8 中央階段黒い鋳鉄製ブロンズの化粧手摺子には昭和初期のデザインが見られ、レトロな雰囲気の空間を作り出している。 |
9 アーチ形化粧梁ところどころに今も残るアーチ型の梁はアール・デコ様式。建物内のモダンな雰囲気を醸成している。 |
10 階段壁にはガーゼを押し付けたような模様の布目タイルが使用されている。一つ一つのタイルの色や輝きに個性があり、モザイクのような風合いがある。 |
11 旧洋式作法室現在は歴史資料館1として使用されている。今も残る大理石張りのマントルピースは竣工当時のまま。 ※特別公開時のみ見学可 |
12 大学講堂(徽音堂)正面には扁額「徽音堂」が掲げられている。天井部が緩やかなアーチ型。化粧欄間や照明カバーなどが竣工当時のまま。※内部非公開 |
13 旧貴賓室かつては皇后や皇族が来校した時も使用された部屋であった。現在は大学会議室。特別豪華な装飾が施されている。※内部非公開 |
14 ロビー(ベンチ・ドアノブ)かつてホワイエとして使用されていた空間。現存するレトロな革張りのベンチがその名残。大学会議室のドアノブは明治創業の堀商店製で特別に華麗。 |
15 階段教室大型の教卓、木製連結机、椅子などが竣工当時のまま。女高師時代の教室の雰囲気を一番残す場所。 ※授業時は非公開 |